作ることの理由
「作る」とはどういうことだろうか。何故、作るのだろうか。作品を作ろうとする者ならば、誰しも一度は頭をよぎることだろう。そして、作り続けることはそれを明らかにするのだろうか。そんなことはない。作られたものは作ることの答えをひた隠し、私たちの目の前で問いを更新し続ける。作ることに答えることは永遠にできない。それでも作ることから離れることができないのならば、到達不可能なその地点への接近を試み続ける他に選択肢はない。
ものをそのままでありながら異なるものとして立ち上げるためには、どのような構造を選べばよいか。ものが与える条件(サイズ、素材、重さ、形、ものが常識的にまとっているイメージなど)から構造は選択される。選ばれた構造は、自身に最適なものの新しい使用法を見つけ出す。新しい使用法は、そのものとその構造のため以外には採用されない。そして、採用されたその時から、使用法は使用法ではない、ものの新たな条件となる。条件とは不自由であり、可能性である。不自由からしか自由は得ることが出来ない。
私は何を作っているのか。作品としかいうことが出来ない。作品とは何であるのか。作品であるとしかいうことができない。作品とは作品であり、それ以上でもそれ以下でもない。ただひたすらに作品であること。そのためには全てが明らかでなければならない。作品は、全てが明らかであってもさらにその奥のわからなさが消えることはない。わからなさは明らかなものの中でこそ抽象的に-それゆえに直接的に-理解され得る。
作品とはわからないものである。そして、どの様にわからないかという「わからなさの質」を求めるものである。